明治5年(1872)5月、『横浜毎日新聞』を発行した横浜活版舎(社)は、新聞購読拡大のため神奈川県下の村々に新聞を配達することを計画しました。計画は、都心部だけでなく農村部でも新聞を普及させようとしたもので、横浜活版舎は農村部での配達の許可を神奈川県に求めました。次に掲げる願書(神奈川区、鈴木登久治家文書)によれば、新聞は毎日飛脚を利用して運ばれ、1ヵ月銀24匁を村に負担させることになっています。
御用留(神奈川区、鈴木登久治家文書)

奉願口上覚
今般、当県管下郷村在々迄毎日新聞紙配達致し、専ら民間之情態を見聞し、新聞紙中に掲示致候得ば、自然と文化を促し候様立至り可申歟、且御布告は勿論彼我相場等速ニ暁得し、今日取引上ニおゐて聊稗益ニも相成可申、左候得ば一挙両弁之義と奉存候、配達方之義ハ摺立次第即刻仕立飛脚五人ヲ以村々最寄分ケ致し当日相届、遠方之分ハ翌朝迄ニ配達候様可仕、且新聞紙代料之義ハ毎月銀廿四匁ツゝ一村毎に受取候様仕度宜御斟量被下、御許有之上は右郷村之者江可然御暁示を以被仰付候様奉懇願候、依之此段奉願候、以上
壬申 活版社中
五月 上原大市
陽其二
神奈川県
御庁
願書を受け付けた神奈川県は配達を許可し、配達を希望する村は横浜からの距離と届け先を横浜活版舎に差し出すことを村々に布達しました。当時、政府は新しい情報伝達手段として新聞を普及させるべきであると考えており、神奈川県も横浜活版社の計画に積極的に関わったと思われます。
しかし、農村部での新聞普及は必ずしも順調ではなく、6月7日に記された文書(前掲、鈴木家文書)には、財政規模の小さな村には購読料を負担できないと考える村もあると記されています。そのため、神奈川県は神奈川宿の役人をつとめていた鈴木源太左衛門に配達希望の村々を取り調べるように命じています。
| 以回章得御意候、然は別紙願書之趣、新聞局江庁ヨリ願書御聞済相成候処、新聞局ニ而は御支配村々一村毎ニ配達致度望之願出ニは候得共、小村ニ而は壱ヶ月廿四匁ニ而も出銀迷惑之村方も可有之間、全ク配達受度村々取調可申出候間、小子出港御用席県庁ヨリ被仰付候間、乍御手数最寄々々配達受度村名御取調至急小子方迄文通ニ而被仰越候様奉願上候、以上 六月七日 神奈川宿 鈴木源太左衛門 |
文書の効果もあってか、6月16日付の『横浜毎日新聞』1面には、神奈川県庁の許可を得て農村部に送る分を含め、毎日総計2千部を越える新聞が配送されるようになり、農村部も都心部と同様に時勢の開化がすすんでいると記されています。
(上田由美)