「開港のひろば」第88号 |2005(平成17)年4月27日発行
現在、神奈川区の海岸部に神奈川台場という史跡があることは案外知られていない。これは、明治時代末年以来、台場周辺地域の埋め立てが進み、現在では遺構の一部分が露出しているにすぎないからと思われる。そのため神奈川台場の存在は、しだいに忘れ去られようとしている。
しかし、かつては台場が貴重な史跡であることを知り、台場の歴史を記録し、台場の遺構を保存しようとした多くの人びとがいた。ここでは、そうした人びとの活動を振り返りたい。
幕末・明治初年の重要な史跡である神奈川台場については、明治時代以降いくつかの研究がおこなわれてきた。その中で、もっとも古いものは明治44年(1911)に史談会がおこなった旧松山藩士内藤素行に対する聞き取り調査である。この結果は史談会の機関紙『史談会速記録』に掲載され、台場建設の経緯などが明らかにされた。
聞き取り調査を実施した史談会は、幕末・維新の歴史資料を収集することを目的とした団体で、宮内省に事務所を置いた半官半民的な団体であった。その活動のひとつに例会の開催があり、明治44年10月14日に開かれた例会の席上で内藤に対する聞き取りがおこなわれた。
談話は、速記を使って記録され、後世に伝えられた。史談会の活動そのものが、失われつつある幕末・維新の歴史を記録することにあったが、明治32年(1899)に廃止された神奈川台場も明治44年には歴史になりつつあったようである。
史談会の活動は東京を中心としており、横浜の人びとは聞き取り調査が実施されたことにほとんど関心を示さなかった。横浜で地元の歴史を編纂したいという機運が高まったのは大正9年(1920)のことで、この年、横浜市は市史編纂の開始を決定した。編纂主任には東京帝国大学史学科を卒業した堀田璋左右が就任し、神奈川台場についても市史編纂担当を中心に調査が進められた。
調査結果については、昭和6年(1931)から同8年にかけて刊行された『横浜市史稿』に収録され、地理編には「神奈川台場址」という項目が設けられ、市内の旧家が所蔵する台場関係資料が紹介された。また、風俗編には台場から発射された礼砲についての分析が、政治編二には台場の建設についての分析が収録された。
しかし、これらの分析は概説的なものであり、台場の歴史の概略が分かる程度のものであった。そのため、台場についての研究は『横浜市史稿』刊行後の課題として残されることになった。
『横浜市史稿』刊行後の台場の研究と保存運動の担い手は昭和9年(1934)に発足した横浜史料調査委員会のメンバーであった。彼らの多くは『横浜市史稿』の編纂に関与し、彼らは横浜市の委嘱を受けて史跡や名所、史料などを調査し始めた。また、活動のひとつに台場関係資料の調査と遺構保存運動があったのである。
ところで、彼らが台場に深い関心を寄せたのは関東大震災によって貴重な歴史資料が失われたからであった。特に、『横浜市史稿』の編纂に従事していた人びとは、編纂の途中で歴史資料が灰燼に帰したことに心を痛め、これが史跡や名所、史料の調査に邁進する原動力になった。
また、横浜史料調査委員会が活動を始めた時期に台場周辺地域の埋め立てが急速に進み、わずかに残った台場前面の海面を埋め立てる計画が公表されたことが、保存運動を一層推し進めるきっかけになった。こうして横浜史料調査委員会によって台場の本格的な調査がおこなわれるのと同時に、神奈川台場を史跡として保存することを求めた「稟申書」(願書)が横浜市長青木周三に提出された。
