「開港のひろば」第84号 |2004(平成16)年4月28日発行
1940年10月、『アドヴァタイザー』が日本政府によって『ジャパン・タイムズ』に吸収合併させられると、フライシャー一家は翌月、離日した。アメリカに帰国したウィルフレッドは『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』などで極東問題を論じたが、UPのマイルス・ヴォーンなど滞日経験のある他のどの記者よりも最新の日本事情に通じていたので、その日本情勢分析はもっとも的確なものであったという(前掲メイ論文、116〜7頁)。
帰国翌年の1941年、ウィルフレッドは滞日回想録『火山列島』を出版した。序文の日付が同年7月20日とあるので、刊行は日米開戦の数カ月前となろう。
「…この本は、この10年にわたって形成されてきた全体主義国家、日本に関して叙述する。…過去に類を見ないような今日の世界の急激な変化は、まったく予断を許さない。今まで経験したこともない変革がアジアにおこり様相を一変させてしまうかもしれない、それはいつ、いかなる場所でおきてもおかしくなく、この本が印刷にかかる直前かもしれないという思いから、できる限り日本で実際に経験した事実だけを記述するにとどめた」と序文にある。劇的な日米開戦と、その後のアジアでおきた諸「変革」を予見したものと言えよう。
開戦後、1942年に『我等が敵、日本』Our enemy Japan を刊行し、43年にはアメリカ陸軍作成の軍事教育用35ミリ映画の脚本である『日本兵』The Jap soldier の編集に協力した。また戦時情報局OWIのヨーロッパ・アジア向け短波放送に関わった。45年、日本が降伏すると、いち早く『日本について為すべきこと』を刊行し、天皇制、占領政策、武装解除など、新たな問題について知日家としての見解を表明した。
1942年8月、最後の交換船で帰国したグルーは、アメリカ国内に冷静な対日世論を啓発するため執筆や講演活動を活発におこない、44年に国務省の極東局長に就任すると、帰国直後から準備してきた回想録『滞日10年』Ten years in Japan(石川欣一訳、昭和23年)を刊行した。本誌前号で紹介したとおり、同書にはフライシャーがグルーの着任間もない32年7月頃より情報交換のためしばしばグルーの元を訪れ始め、40年のフライシャー帰国までつづいたその交流も記されている。
アメリカの対日戦後政策の重責を担う人物が著した同書は、大きな反響をよんだ。書評も40本近く書かれ、概して好意的な内容であり、旧知のフライシャーも『ボルチモア・イヴニング・サン』に書評を寄せ、「パールハーバーに先立つ10年間の興味ある個人記録であると同時に外交記録である。…過去の危機的な10年間に起きた諸事件、今日のわれわれの運命を形づくった外交的諸事件を本書ほど詳細に伝えている書物はほかにない」と称賛した(中村政則『象徴天皇制への道』67〜8頁)。
一方、グルーもこの頃、天皇制維持の持論を記した友人あて書簡の中で、自分と同意見の日本問題の専門家として、イギリスのサンソム卿らと並んでフライシャーの名前をあげている(前掲中村書、51頁)。
フライシャーは、豊富な滞日経験をもとに日本問題専門家として活躍し、その対日観はグルーに近いものがあった。
(中武香奈美)