「開港のひろば」第81号 |2003(平成15)年7月30日発行
市川荒二郎は、横浜を代表する俳優であり、明治後期の賑座(にぎわいざ)の、絹物縫製に従事する女性をターゲットにした通称「ハンケチ芝居」のスターであった。関西歌舞伎の名門三河屋市川荒五郎の次男に生まれ、大舞台も踏んだが、奇抜な演出で異端者扱いされ、横浜に落ち着き、「浜の団十郎」とも称された。一時旅芝居に出るものの、大正・昭和期の喜楽座・横浜歌舞伎座の座頭として人気を誇り、昭和10年(1935)10月10日66才で逝去した。荒二郎を「異端」「珍優」と形容する資料は少なくなく、劇作家の長谷川伸は、荒二郎が山崎の合戦に敗れた明智光秀が自動車で逃げ、それを羽柴秀吉が飛行機で追うといった珍無類の芝居をつくったと回顧する。しかし舞台での荒二郎は珍妙さが先走った芝居ばかりではなかった(「珍優市川荒二郎逝く」『演芸画報』1935年11月号、長谷川伸『よこはま白話』1958年刊)。
六代目三遊亭圓生は、明治の落語中興の祖、三遊亭圓朝の人情噺(にんじょうばなし)を狂言化した「塩原多助一代記」(三世河竹新七脚色)に出演した荒二郎の舞台を、噺家らしい口調で以下のように紹介している。
あおを立木へつないで、わかれを告げて、多助が行きかける……ここンところは、お客を泣かせるところですからねェ、あたりまいならば竹本(義太夫)でもって、ぐっと締めるとこなんですけれども、いきなり、ちゃちゃちゃりん、ちゃりん、ちち、とちちりン……、てんで、『米洗い』みたいな三味線になって、鳴物がにぎやかにはいる……へへ、それじゃァちっともあわれっぽくないんですよ。「あれあれ……」と思って、見てると、多助が、右足をとんと踏んで、左足をうしろへ跳ねあげる……と、そのわらじを、馬がくわえて引っぱるんで、とんとんとんと、さがってくる。くわえていたのを、ぼんとはらって、その左足をとんと前へ出すと、左肩ンところへ、馬の首が出てくるやつを両手でかかえてると、からァん、と、つけがはいって、大見得を切るんですねェ。するてえと、見物はもう、わァわァというかっさいで……いや、あたくしァ実にどうも、おどろいた。あんな『馬のわかれ』は、あとにもさきにも見たことはありません。」(三遊亭圓生『寄席切絵図』1977年刊)
歌舞伎は「型」の芸術であるといわれる。「塩原多助」における愛馬「あお」との別れは、この芝居最大の見せ場であるが、初演の五世尾上菊五郎以来、普通はすすき野原の舞台を半回しにして、多助が幾度も「あお」を見返りながら立ち去るという「型」をもつ。立ち去る多助の寂しい姿からすれば、荒二郎の「あお」の首を抱えた大見得は「型破り」である。しかし、横浜の芝居好きは、この荒二郎の「型破り」を愛した。そして、荒二郎もまた「客席の薄い時は大車輪で之でも見ないかといふ奮闘」(前出『演芸画報』)で応えたのである。