展示余話
5度の危機を乗り越えた、たまくすの木
関東大震災直後に植継ぎの危機
もう一つの「危機」は関東大震災直後におきていた。大火に焼かれたたまくすを見た横浜市は、枯れたと思い、他の場所から同じたまくすを持ってきて植継ぎする計画をたてたのである。
1923年と24年の『横浜市事務報告書』の「史跡名木ニ関スル件」には、植継ぎ計画とたまくすの復活の経緯がつぎのように記されている。
山下町英国領事館構内ノ我国開港談判所遺跡ニ在リタル「玉楠」ハ震火災ノ為メ枯死シシタルモ…英国領事館内ノ史跡ヘハ更ニ植継キヲ為ス見込ナリ((『横浜市事務報告書』1923年)
震災直後、たまくすの替え玉とも言える計画がたてられた。ところが翌24年、この計画は中止となった。
山下町英国領事館構内ノ我国開港談判所遺跡ニ在リタル「玉楠」ハ震火災ノ厄ニ遭ヒ一旦枯死シタルヲ以テ其跡ニ植継キヲ為ス見込ナリシカ、本年春夏ノ交ニ至リ其ノ根幹ヨリ餘蘖[ひこばえ]発生シタルニ依リ、直チニ其周囲ニ竹柵ヲ結ヒ相当保護ヲ加ヘタルハ意外ノ幸ナリシ…(『横浜市事務報告書』1924年)
24年の春から夏に替わる頃、図らずもひこばえが芽生え、周囲に竹柵を作ったりして保護することになり、この計画は中止となったというのである。この経緯は前掲『横浜市史稿 地理編』(998頁)にも記されていたが、植継ぎのたまくすが実際に敷地内に持ってこられたか否かはわからなかった。
図3は、1931年のイギリス領事館(現当館旧館)再建中の写真である。あまり写りはよくないが、左端に竹柵で保護され、木の一部が見えている本来のたまくすが、そして右端、領事館県庁側入口横に大きな樹勢のよい別のたまくすが見える。これが植継ぎ用に準備されたたまくすではないだろうか。どこから持ってこられ、その後、どこへ移されたのかは、これまた不明である。
図3 英領事館建設中の写真 1931年

ひこばえは1923年秋に芽生えていた
『東京日日新聞』23年11月30日号に、ひこばえが芽生えたことを伝える記事「開港記念の名物 玉楠の再生-震火に祟られながらも 可愛い萌芽を見せて」が図4のたまくすの写真とともに載った(佐藤孝「横濱もののはじめ探訪 その5 横浜文化指定の始め 玉楠の木」『広報よこはま 中区版』1998年3月号)。
図4 ひこばえが芽生え蘇ったたまくす 1923年

復活したたまくすを喜ぶ市民の気持ちがよくわかる記事なので、長くなるが記事を引用しよう。
焼けた英国総領事館の庭に一もとの玉楠があった事は古い浜の子なら誰でも知って居よう、そしてそれが我国中部以南にはめづらしい北国の木である事も次に述べようとする歴史物語りと共に多くの人は知って居るであろう。
たまくすは当時、浜っ子なら誰でも知っていたのである。なお、たまくすの説明は誤りで、日本では本州・四国・九州・沖縄に分布し、とくに海岸近くに多い暖かい地方の木である。
嘉永6年、黒船に乗ってはるばる来朝したペルリ提督とわが全権との会見の場について幕府ではやかましい議論があったすえ横浜村がよかろうといふ事に決した。当時はこれといふ建物もなし目標とすべきものもなかったがタヾ浜べにめづらしくも一株の玉楠が繁っていた。
両特使の会見がこの樹蔭で行はれたのも偶然ではなかったらう。…面白い事にはこの木には年々名も知れぬ白鳥が巣を構へ冬に至ると共にどこへともなく飛び去る事である。あるものは霊鳥だといひ古老はわが国に、外国との交通がつづいてをるうちは必ず見るであらう現象だといひつたへた-ところが過般の震災はかうした記念樹までも領事館の焼失と共に梢はまっ黒に焼けて浜名物の一つもたうたうなくなったといはれ知る人々の胸にある哀感を与へたのであった。がしかし木は未だ枯れたのではなかった。なみはづれたこのあたゝかさに玉楠の根木には可愛い双葉が萌え出した。さる古老の言葉を借りていへばわが国と外国とのまぢわりが益々盛んになって行くこの際どんなにしても枯れるべき筈はないのかも知れぬが、その理非はおいて、若芽は元気よくやはらかい秋の日をあびて光っている。霊鳥が巣くふべきこずえの茂味丈は当分望まれないではあらうが、浜の一名物を失はずに済んだのは、先づ結構といはねばなるまい。
前掲の『横浜市事務報告書』が翌24年と記したよりもずっと早く、ひこばえは芽生えていたのである。横浜市がこの事実を知らないはずはない。あるいは、この時のひこばえは冬の寒さで育たず、本格的な復活はやはり翌年の初夏となったとも考えられるが、なぜこの事実を報告書に残さなかったかは不明である。
記事は、たまくすに芽生えたひこばえを「復興のしるし」として、横浜市の復興を念願するつぎの文章で締めくくられた。
これは横浜が復興するしるしですよといはれる-はたしてさうだとすればこの樹は愈ゝ霊木として注連でもかけて見たい気もする。
(中武香奈美)