「開港のひろば」第109号 |2010(平成22)年7月28日発行
- 企画展 横浜山手 コスモポリタンたちの1世紀
- 企画展 資料に刻まれた家の記憶 中華街で長年、ベーカリーを営なんだデンティチ家
- 企画展 資料に刻まれた家の記憶 第一次大戦で捕虜として来日したフランツ・メッガー
- 企画展 資料に刻まれた家の記憶 磯子のボイラー製作会社、禅馬(ぜんま)ワークスの支配人、ブリトン
- 展示余話 田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔
- 展示余話 田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔 『田園』の配本先
- 展示余話 田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔 川和教会とスーザン・プラット・毛利官治
- 資料よもやま話 東京神学大学図書館所蔵『よろこばしきおとづれ』の複製本公開 姧峴偺宱堒偲奣梫
- 特別資料コーナー 新子安海水浴場
- 資料館だより ▼企画展示
企画展
資料に刻まれた家の記憶
第一次大戦で捕虜として来日したフランツ・メッガー
フランツ・メッガー(ジュニア)氏提供
フランツ・メッガー(Franz Metzger)の来日は戦争がもたらした偶然であった。1884年にドイツ西部のエッセンに生まれたメッガーは志願兵としてドイツ海軍海兵隊に入隊し、中国の青島(ちんたお)に配属された。1914年、第一次大戦勃発で青島(ちんたお)に侵攻して来た日本軍の捕虜となり、広島の似島(にのしま)収容所に収容された。戦後、解放されて東京に行き、日本に残る道を選んだ。このような仲間に洋菓子で有名なユーハイム、銀座でドイツレストランを開いたケテル、デリカテッセン店で知られるローマイヤらがいた。
やがて横浜に移ったメッガーは1926年頃に山下町92番にフランス料理店クレッセント・クラブ(Crescent Club)を開いたが、29年の大不況下でつぶれたという。その後、元町3丁目の表通り、汐汲坂入口にデリカテッセンの店を開いたが、横浜大空襲で焼け出された。元町の古参の住民は「ドイツ食堂」として記憶していた。「食堂っていっても店で食べさせるわけじゃなくて、ドイツの食料品を売る店」だった(『横浜元町140年史』2002年、87頁)。
そのメッガーが青島(ちんたお)時代から大切に持ち続けていたものに南ドイツ地方の民俗楽器、チターがある。二度の戦火と関東大震災をくぐり抜けたチターは、現在、三男のフランツ(ジュニア)が愛用している。弦と木製ケースの一部を除いて部品交換はしておらず父親から受け継いだままの姿だという。
フランツ・メッガー(ジュニア)氏蔵
メッガーは1960年に鎌倉で亡くなった。76歳だった。