「開港のひろば」第90号 |2005(平成17)年11月2日発行
10月30日まで開催された企画展示『ドン・ブラウンと戦後の日本−知日派ジャーナリストのコレクションから』では、会期途中で展示資料の追加があった。朝日新聞東京本社文化部の石田祐樹記者が展示オープン後に発見したブラウンの墓の写真である。

ブラウンについてはこれまで機会があるごとに紹介してきたので詳細は省くが、略歴はつぎのようである。1930年に初来日したブラウンは国際ジャーナリストとして10年間を過ごし、日米開戦前年に帰国した。戦時中は米戦時情報局に属し、日本軍向けの宣伝ビラ作成に携わった。戦後すぐに再来日し、GHQの民間情報教育局情報課長として52年の占領終了まで日本のメディア全般の民主化政策にふかく関与した。その後、民間の日本研究団体である日本アジア協会の理事として紀要編集などの活動に力を注ぎ、80年に日本で亡くなった。しかし当初は経歴もほとんどわからない謎だらけの人物であった。
昨年の企画展「ある知日家アメリカ人と昭和の日本−ドン・ブラウン文庫1万点の世界」につづいて今回、ブラウン展第2弾を開催し、また『図説 ドン・ブラウンと昭和の日本』(横浜国際関係史研究会・当館編、有隣堂発行)も刊行する過程で、その足跡をかなり明らかにすることができたが、まだまだ謎は残った。今回、発見された墓もそのひとつであった。
以前からブラウンに関心を持っていた石田氏は、この『図説』中の少ない手がかりをもとに調査し、津市の四天王寺にあるブラウンの墓にたどり着いた。この発見は『朝日新聞』8月24日付朝刊の文化面「戦前・戦後の日米関係映す ドン・ブラウン生誕100年」の記事中で紹介されたが、「墓は津市の寺にある」と1行触れられただけであった。
当館がブラウン・コレクションを受け入れた81年当時、ブラウンの古くからの友人で遺産管財人となったブレークモアから当館に提供された英文の略歴に「80年5月17日、友人である名古屋のアサカワ氏の病院で死去。アサカワ家の墓地に葬られた」とあった。これが墓についての唯一の記録であった。
やがてコレクションの整理が進みブラウンの足跡がしだいに明らかになっていく内に、アサカワ病院を訪ね、墓も確認したいと思うようになったが、20年近い歳月はさまざまな手がかりを消し去っていた。ブラウンの最晩年まで交友のあった人びとを捜し出すのは容易ではなかった。最も親しかったと考えられるブレークモア夫妻はその後帰国し、すでに死亡していた。
そのような中で新しい手がかりが見つかった。ブラウン文庫の整理中に偶然見つけた「東京ローンテニスクラブ」の60〜70年代の会員名簿であった。ブラウンの名はどの年の名簿にも載っていなかったが、朝川胃腸病院(名古屋市中区、すでに廃院)の朝川晃という名前に出くわした。ブラウンの最後を看取った名古屋のアサカワ医師というのはこの人物かもしれないと思い、ブラウンと交友のあった人と出会うたびに尋ねたが、誰からも確証はえられなかった。
今春、ブラウン死亡時の日本アジア協会長、ケンドリック氏の夫人が、アサカワ医師に一度だけ会ったことがあり、名前は覚えていないが、テニス選手だったと記憶していると、手紙で知らせてくれた。この一文で、『図説』の「ドン・ブラウン年譜」に「名古屋の友人であるアサカワ(東京ローンテニスクラブの朝川晃カ)病院で死去」と記すことができた。
石田氏が名古屋で捜し当てた朝川胃腸病院の関係者はブラウンのことはあまり知らなかったが、朝川家の墓がこの寺にあることを教えてくれ、その日の内に寺を訪ねた石田氏は墓を発見した。四天王寺は聖徳太子の建立と伝えられる曹洞宗の中本山で、境内には織田信長の生母の墓もある由緒ある寺である。
ブラウンの墓は朝川家一族の墓所の一角にあり、朝川晃建立と記されていた。石田氏が訪ねたのは8月の旧盆の頃であったが、誰かが墓参をした様子は見られなかった、また朝川晃もすでに亡くなったとのことであった。

筆者も休暇を利用して9月の彼岸の中日に墓を訪ねたが、やはり誰もブラウンや朝川家の墓に参った様子はなかった。
ブレークモア法律事務所の関係者によると、同事務所からブラウン死亡の知らせを受けてアメリカから甥が来日し、分骨して持ち帰ったが、名前も住所も今となってはわからない、とのことだった。ブラウンの日本の墓は見つかったが、アメリカに戻った分骨の行方という新たな謎がうまれた。
*写真は石田祐樹氏提供。今年8月撮影。