横浜市開港記念館

昭和10頃のブラウン

 まずブラウンを紹介しよう。

  ブラウンは、これまで調べたいくつかの史料をつき合わせると、ピッツバーグ大学大学院で学んだ後、1930(昭和5)年初めに初来日し、同年4月、『ジャパン・アドヴァタイザー』に入社した。同紙は19世紀末に横浜で創刊された英字日刊紙で、当時、極東でもっともよく知られた英字新聞であった。この写真は昭和10年前後の撮影と考えられるので、入社5年目くらいの中堅記者というところだろうか。年齢は30歳前後である。

  『ジャパン・アドヴァタイザー』記者のほとんどは、それぞれがアメリカやイギリスの各新聞社・通信社の特派員も兼ねていた。例えば主筆で、社主の息子でもあるW・フライシャーは『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の日本特派員であった。ブラウンも、ボストンの『クリスチャン・サイエンス・モニター』や『シカゴ・デイリー・ニュース』、また時には『ニューヨーク・タイムズ』の代理通信員をつとめ、独自にアメリカへ記事を書き送っていた。

  写真画面の1番左端に写っていて、顔の左端が切れてしまっている人物である。

  スコットランド出身。1914(大正3)年にロンドンの『タイムズ』の特派員として初来日し、『ジャパン・アドヴァタイザー』の編集長をつとめたこともある。『ニューヨーク・タイムズ』特派員も兼ね、もっとも影響力の大きい外国人ジャーナリストであり、人望も厚かった。

  この写真の頃は、すでに60歳くらいであったが、その後も日本で記者活動をつづけ、日米開戦直前の1941(昭和16)年5月、アメリカに向けて離日した。翌42年、ニューヨークで出版した『敵国日本』、つづく『昭和帝国の暗殺政治』は、長い在日経験をもとに編まれた日本分析書として、アメリカ人に広く読まれた。

  葉巻(か?)をくわえた特徴的な姿がとらえられている。天羽の資料集に掲載された写真にも、同じ席で同様の姿で写っていたのですぐにわかった。

  アメリカ・カリフォルニア州出身。カリフォルニア大学を卒業後、1906(明治39)年に初来日し、『ジャパン・タイムズ』記者となった。その後、『ジャパン・アドヴァタイザー』に移り、再び『ジャパン・タイムズ』に戻ったりもしたが、この当時はロンドンの『デイリー・テレグラフ』通信員や、オーストラリアやカナダの通信社の仕事をしていた。この写真の頃は50歳を迎えたくらいで、バイアス同様、最古参のジャーナリストのひとりであった。

  イギリス人。ロイター通信記者。ボンベイやセイロン、上海、香港で支局長をつとめるなどした後、1933(昭和8)年、来日した。

  後の1940(昭和15)年、憲兵隊の外国人一斉検挙時にスパイ容疑で逮捕され、東京憲兵隊本部で取調中、謎の飛び降り自殺を遂げた。事件は外国人ジャーナリストの間に大きな衝撃と恐怖を引き起こした。