「開港のひろば」第86号 |2004(平成16)年11月3日発行
池谷等の「神奈川川」計画から約15年後の明治20年1月、今度は吉田村(現在港北区)の笈川新兵衛が発起人となって、神奈川県知事宛に「新川開通草案」を提出した。その内容は、小机村より篠原村・六角橋村を経て滝の川に至る、全長1里10町(約5km)、幅8間(約14.5m)の分水路を開く計画で、工費22,245円というものであった(「山室宗作家文書」713)。その後、測量・設計や関係機関・住民との話し合いなども進んだようであるが、笈川の死去などにより、この計画も日の目を見ることなく終わった(『鶴見川水害予防組合史』)
鶴見川はその後も氾濫を繰り返し、明治40年代には毎年のように大規模な水害が中下流域を襲った。神奈川県は地元の村々と協力して、鶴見川中流の川幅を拡げる工事を行い、流下能力を高めようとしたが、依然として洪水の被害は止まなかった。流域の人びとは、鶴見川の治水工事には莫大な費用がかかり、村・県単位の小規模な改修工事では効果が挙がらないとして、国による直轄工事を求める運動を、明治44年から開始した。この運動をもとにして、大正10(1921)年に鶴見川改修期成同盟会が成立し、さらにその組織を強化した鶴見川水害予防組合が昭和9(1934)年に発足した。
こうした地道な運動が実を結び、昭和14年11月、念願の国による鶴見川の直轄工事が実現した。この工事では、川幅を100〜125mに拡げ、また水深を19〜40mに深く掘り下げるなどして、流下能力を毎秒450〜650立方メートルに高めることに主眼が置かれた。しかし戦時中の予算縮小や労働力不足により、工事の成果は充分に挙がらなかった。
昭和初期以降、鶴見川の流域では他に例を見ない早さで都市化が進み、その一方で保水・遊水機能を持った谷戸・緑地の多くが消滅し、鶴見川に流れこむ水の量は増大した。このため、昭和33年の狩野川台風や、41年の台風四号、51年の台風17号に代表されるような大規模な水害が多発し、流域開発と水害との因果関係が次第に明らかとなった。
昭和50年代に入り、総合的な治水対策が検討される一方、上流の港北ニュータウン開発と並行して、中流から下流にかけて大規模浚渫工事が開始された。河口から亀の子橋までの鶴見川本流と矢上川・早淵川・鳥山川の支流の河道を浚渫・掘削して得た土砂390万立方メートルは大黒埠頭の埋立に利用され、鶴見川下流部では毎秒950立方メートルの流下能力を持つことが目標とされた。
昭和56年の流域整備計画に続き、平成元年度には新流域整備計画が策定され、鶴見川の総合治水対策は都市河川の治水対策として全国的に定着していった。さらに平成15年には横浜国際総合競技場周辺の多目的遊水地が完成し、鶴見川の治水安全度は一層高まったとされる。
鶴見川の中流から下流にかけて、さらなる治水安全度の向上を求めて、暗渠の放水路を敷設する計画も検討されているという。天保年間、明治3年、明治20年と3度にわたって計画されてきた「幻の鶴見川分水路計画」は、約120年の時を経て現代にまで生き続けているのである。
(松本洋幸)