「開港のひろば」第85号 |2004(平成16)年8月4日発行
8月29日まで横浜都市発展記念館で開催中の「横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて」(横浜都市発展記念館主催、横浜開港資料館・横浜ユーラシア文化館ほか共催)には、約130点の資料が出陳されています。その一つに、南小柿洲吾(みながきしゅうご)関係文書の1つ、明治9年(1876)9月29日付けの「御見聞願」(南小柿由巳子氏所蔵)があります。
南小柿洲吾(1845〜1917)は、「御見聞願」を提出した当時、横浜第一長老公会の長老であり、のちに同公会最初の日本人牧師となった人物です。彼は、明治9年9月11日、第二国立銀行所有の住吉町2丁目の土地を個人で借用しました(「横浜指路教会借地証他」東京女子大学比較文化研究所佐波文庫所蔵)。「御見聞願」は、同月29日、借用した土地に建物を建てるにあたり、第一大区一小区の正副戸長宛に見聞願いを提出したものです。南小柿が借用した土地に建てられた教会が、指路教会の前身である住吉町教会であり、この資料は、横浜における明治初期の教会成立の歴史を明らかにする資料の一つです。

南小柿洲吾関係文書には、このほかに約50点の資料があります。そこには、前述の「御見聞願」のほかにも、興味深い資料があります。横浜禁酒会についての資料もその一つです。
19世紀になると、主にアメリカのピューリタンたちは、国内外への宣教に努めました。1859年(安政6)の開港を機に、諸外国の宣教師たちが次々と日本を訪れましたが、横浜へ来航した宣教師の多くは、ピューリタン主義のプロテスタント諸会派の人々でした。そして、日本における彼らの活動も、ピューリタン主義の特徴である学校建設や、乳児保護事業といった社会活動を中心としたものでした。禁酒によって生活向上と社会改良を実現しようとする禁酒運動も行なわれました。日本基督公会を創設したバラ(J.
H. Ballagh, 1832〜1920)が、来日後数年でその活動を始めたといわれています。バラの活動に影響を受けた奥野昌綱(1823〜1910)らは、明治8年(1875)6月、横浜禁酒会を創設します。奥野は、ヘボン(J.
C. Hepburn, 1815〜1911)の日本語教師であり、ブラウン(S. R. Brown, 1810〜1880)から受洗し、日本基督公会の長老となった人物です。そして、横浜禁酒会の規則をまとめたものが、ここで紹介する『禁酒会のおきて』です。そこには、「一、この会をたつるのわけは酒をのむことをいましむるのみなりぞ」で始まる10条の掟が書かれており、巻末には、議長奥野昌綱、副議長牧野鋭吉郎の名が記されています。

また、南小柿洲吾関係文書には、その後の横浜禁酒会の活動を知ることのできる文書がもう1点あります。「禁酒会傍記」で始まる綴ですが、そこには次の3点の文書が綴られています。
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