「開港のひろば」第85号 |2004(平成16)年8月4日発行
布川悦五郎(1871〜1914)は、武蔵国久良岐郡宿村(現在金沢区)の旧家布川家の次男で、釜利谷学校の教員、六浦荘村収入役、同助役、同村長を歴任した人物です。悦五郎は明治20年(1887)16才の頃から日記を記しており、大正3年までの9冊が残されています。当館では、以前企画展示でこれらの日記をとりあげ、西川武臣「布川悦五郎日記にみる明治時代の横浜」(『横浜開港資料館紀要』17号 平成11年)や『開港のひろば』64号、65号(平成11年)でも紹介しています。
10代、20代の悦五郎の日記には、その時々に関心があった新聞や雑誌についての記載があります。特に雑誌は、具体的な誌名がわかるので、ここでは新聞だけでなく、当時の教員がどのように雑誌を読んでいたのかを見てみたいと思います。
悦五郎は明治18年3月に釜利谷学校中等科を卒業し、明治20年9月から授業生として釜利谷学校で教鞭をとりました。
明治20年、21年の日記には、新聞、教育関係雑誌、教育書を読んだという記載が多く見られます。新聞については、自宅や学校のほか、他家で読んだりしています。この頃には、個人で新聞を購読する家も増えてきたのでしょう。明治21年1月から『東京絵入新聞』を取寄せると書かれていますが、それ以外に読まれていた新聞名についてはわかりません。

購読していた雑誌は、ほとんどが東京で発行されたものでした。開発社が発行した『教育時論』、日本橋区にあった書方改良会の『国民必読』雑誌などの記載があります。県内のものでは、明治21年に発足した神奈川県教育会の機関誌『神奈川県教育会雑誌』が見られます。
教育関係の書籍・雑誌だけでなく、明治27年に博文館から発行され、当時のベストセラーだった『日清戦争実記』や家業である農業関係の雑誌も読んでいました。
入手方法としては、書籍は関内に出たときに書店で購入したものもありますが、雑誌の多くは、数号分まとめて代金、送料とも郵便切手や通運会社の通運便で発行所に送り、郵送や通運便で入手しています。東京府外は郵便税が1割増しだったようです。
悦五郎は授業をするかたわら、通信教育を受けています。明治21年には、『教育時論』の発行所である開発社が始めた通信講学会の、教育学や論理学の講義録を取り寄せています。通信講学会は、通信教育のはしりといわれるものでした。
明治27年には、明治講学会の師範学科の講義録も購読し、師範学科の終了証書を受けています。
また、明治32年には教員を辞めていますが、その前後の日記には、東京で発行された『実業之日本』、『日本之園芸』や、川崎で発行された『本農』などが記され、実業関係の雑誌に関心が移っていることがわかります。
(上田由美)