横浜市開港記念館

 弁護士、ブラウンの遺産管財人。昭和14年、東京帝国大学に留学のため初来日した。ブラウンとの交流はこの時からはじまったという。戦時中は戦略事務局(OSS)に属した。21年に政治顧問部(POLAD)スタッフとして再来日し、間もなく民政部(GS)に移った。オプラーとともに、戦後日本の裁判所法、刑事訴訟法の改正に重要な役割をはたした。占領途中でGHQを辞し、東京に弁護士事務所を開いて日本にとどまった。晩年に帰国し、シアトルで亡くなった。

夫人のフランシスは、民間情報教育局情報課スタッフとしてブラウンの下にいた。日本美術に造詣が深く、後年、Japanese deseign through textile patterns(『織物の柄にみる日本のデザイン』)[ブラウン文庫 4886]やWho’s who in modern Japanese prints(『現代日本版画家名鑑』)[ブラウン文庫 2083]などの著書がある。後者には、「この本をドン・ブラウン・コレクションへ謹呈」との夫人の自筆献辞がある。

去年の夏、ブレイクモアがのこした文書の存在が明らかになった。

献辞直筆

 ……フライシャアは私が彼自身も知らなかった最近の情報を、ちょいちょい話すので得をしている。新聞社側もまた有益的でなければ、新聞社と有益な関係を結ぶことは出来ない。」(石川欣一訳・上巻)

 フライシャアとは、当時ブラウンが勤めていた『ジャパン・アドヴァタイザー』紙の上司、編集長のW. Fleisherである。父親は同社の社主であった。この記述は、フライシャアが避暑に出かけて留守の間、ブラウンが代わって外務省で白鳥敏夫情報部長がおこなう定例記者発表の報告をしにグルーの元を訪れることになったというものである。残念ながら本書には、この後、実際にブラウンがグルーと面会したという記述は出てこない。しかしフライシャアはその後もしばしば、グルーの元を訪れたことが記録されている。この関係は、昭和15年、同紙が日本政府によって『ジャパン・タイムズ』紙に吸収合併させられ、フライシャアらが帰国するまでつづいた。新聞記者時代のブラウンの活動の背景をうかがい知ることができる資料である。

 なおフライシャアは帰国の翌年、1941年に滞日回想録 Volcanic isle(『火山列島』)[ブラウン文庫1284]をニューヨークで刊行した。