「開港のひろば」第83号 |2004(平成16)年2月4日発行
カナダの外交官で、日本歴史家。父親は宣教師で、長野に生まれ育った。1940年刊行の Japan’s emergence as a modern state(『日本における近代国家の成立』)[ブラウン文庫 1586]や、43年刊行のSoldier and peasant in Japan(『日本の兵士と農民』)[ブラウン文庫 1587]などの著者として知られる。
ブラウン再来日直後の昭和20年12月から翌21年1月にかけて、このノーマンとブラウンとの間に、頻繁な交流があったことが、ブラウンののこした文書で確認できた。ブラウンがニューヨーク在住の友人宛てに出した書簡(控)に、宿舎(第一ホテル)が同じであったノーマンと食事を共にしたり、銀座の教文館まで日本関係書籍をさがしに出かけたり、あるいは夜遅くまで宿舎で語らったりしているようすが綴られている。当時、ノーマンはGHQの対敵諜報部(CIS)に属していたが、21年1月末、極東委員会カナダ次席代表となるため離日した。
しかし同年8月、ノーマンは駐日カナダ代表部首席として再来日し、その後、日本アジア協会の戦後の初代会長に選ばれるなどしている。ブラウンもこの頃、同協会の理事に選ばれているので、交流の再開は容易に推測されるが、現在のところ、裏付ける資料はない。
二人の交流については、拙文「ドン・ブラウンとE. H. ノーマン−ドン・ブラウン書簡(控)から」(『横浜開港資料館紀要』第19号、平成13年)において関係書簡(控)全訳を掲載して紹介した。参照されたい。なお資料自体は整理中のため、今回の展示に出陳していない。ご了承いただきたい。
……フライシャアは私が彼自身も知らなかった最近の情報を、ちょいちょい話すので得をしている。新聞社側もまた有益的でなければ、新聞社と有益な関係を結ぶことは出来ない。」(石川欣一訳・上巻)
フライシャアとは、当時ブラウンが勤めていた『ジャパン・アドヴァタイザー』紙の上司、編集長のW. Fleisherである。父親は同社の社主であった。この記述は、フライシャアが避暑に出かけて留守の間、ブラウンが代わって外務省で白鳥敏夫情報部長がおこなう定例記者発表の報告をしにグルーの元を訪れることになったというものである。残念ながら本書には、この後、実際にブラウンがグルーと面会したという記述は出てこない。しかしフライシャアはその後もしばしば、グルーの元を訪れたことが記録されている。この関係は、昭和15年、同紙が日本政府によって『ジャパン・タイムズ』紙に吸収合併させられ、フライシャアらが帰国するまでつづいた。新聞記者時代のブラウンの活動の背景をうかがい知ることができる資料である。
なおフライシャアは帰国の翌年、1941年に滞日回想録 Volcanic isle(『火山列島』)[ブラウン文庫1284]をニューヨークで刊行した。