横浜市開港記念館

 ドン・ブラウンは一般にはあまり知られていない人物である。しかしその周辺に目を向けると、著名人、あるいはその分野ではよく知られた人物がうかびあがってき、ブラウンのその時々の動きをうかがい知ることができる。

 展示では、そのような人びとの中から十数名を選んで「ブラウンをめぐる人びと」として紹介したが、ここではその中の何人かをとりあげたい。

 ドン・ブラウン文庫中の関係図書をおもな資料とした。書名の後に請求番号を付した。展示終了後、ご利用いただきたい。

肖像写真

昭和16年の日米開戦時の駐日アメリカ大使。戦時下の昭和19(1944)年、ニューヨークで Ten years in Japan(『滞日十年』)[ブラウン文庫(原本)1312・(翻訳本・下巻)1313]を出版し、大きな反響をよんだ。昭和7年の赴任時から17年の離日までの10年間、グルーは詳細な日記を綴った。この日記をもとに書かれたのが本書である。

 ブラウンの名前がこの『滞日十年』中に1カ所登場する。赴任間もない昭和7(1932)年7月22日の項である。

 「フライシャアが、2週間軽井沢へ行くといって挨拶にきた。彼は私と新聞との連絡係なので、彼がいなくなることは淋しい。だが、彼は社員のドン・ブラウンが、毎日の記者会見で白鳥が何か面白い打あけ話をしたら、その時々に私に伝えるようにすると約束した。

 ……フライシャアは私が彼自身も知らなかった最近の情報を、ちょいちょい話すので得をしている。新聞社側もまた有益的でなければ、新聞社と有益な関係を結ぶことは出来ない。」(石川欣一訳・上巻)

 フライシャアとは、当時ブラウンが勤めていた『ジャパン・アドヴァタイザー』紙の上司、編集長のW. Fleisherである。父親は同社の社主であった。この記述は、フライシャアが避暑に出かけて留守の間、ブラウンが代わって外務省で白鳥敏夫情報部長がおこなう定例記者発表の報告をしにグルーの元を訪れることになったというものである。残念ながら本書には、この後、実際にブラウンがグルーと面会したという記述は出てこない。しかしフライシャアはその後もしばしば、グルーの元を訪れたことが記録されている。この関係は、昭和15年、同紙が日本政府によって『ジャパン・タイムズ』紙に吸収合併させられ、フライシャアらが帰国するまでつづいた。新聞記者時代のブラウンの活動の背景をうかがい知ることができる資料である。

 なおフライシャアは帰国の翌年、1941年に滞日回想録 Volcanic isle(『火山列島』)[ブラウン文庫1284]をニューヨークで刊行した。