「開港のひろば」第78号 |2002(平成14)年10月30日発行
横浜公園から日本大通りをまっすぐ海に向かって進むと、右手に横浜情報文化センターが見えてくる。その角を右に曲がったところに、情報文化センターに隣接して、チョコレート色のタイルが印象的な建物が目に入る。日本大通りの12番地に建つ旧横浜市外電話局の建物である(図1)。この一年ほどのあいだ改修工事により覆いが掛かっていたので、久しぶりに現われた姿を見て、そういえばこんなもの建っていたっけ、と思われた方もいたであろう。
ここでは現在、横浜都市発展記念館および横浜ユーラシア文化館というふたつの展示施設の開館準備がおこなわれている。横浜市の認定歴史的建造物でもある旧横浜市外電話局を保存活用するかたちで、両施設の整備がスタートしたのは昨年の春のこと。この夏、ようやく建物の改修が終わり、現在は外構工事に入っている段階である。オープンを来春に控え、私たち職員一同は、開館準備に追われる毎日である。
もちろん、肝心の展示準備の方も、目を剥くようなスケジュールで進行中である。その詳細については、別の機会に譲るとして、今回は、施設の顔となる建物そのものについて紹介しておきたい。
以前はNTTが入っていたこの建物、建てられたのは70年以上も前の昭和4年のことで、竣工当時は横浜中央電話局の施設であった。設計を手がけたのは逓信省、つまり旧郵政省の前身である。
当時、逓信省といえば、独自の建築デザインで定評があった。たとえば、大正時代の逓信省建築は、パラボラアーチや曲面を多用した「表現主義」の様式を大胆に導入しており、実際、大正時代に建設がはじまった横浜中央電話局は、まさに典型的な表現主義建築だった。
ところが、この社屋は完成半ばにして関東大震災にあい、竣工にいたることなく解体されてしまう(図2)。現在の建物は、このあとを受けて建設された、昭和期逓信省の設計によるものである。
昭和の戦前期といえば、銀行建築によく見られるように、列柱の立ちならぶ威厳ある古典主義様式が頂点を極める一方で、重厚な装飾を削ぎ落としたシンプルな構成が流行した時代である。
この電話局は後者に属する。深い陰影の植物文様をもった装飾がなくなった代わりに、外壁一面にタイルを貼りめぐらしたことで、プレーンな印象がずいぶんと強い。凹凸のない平らな壁面、真四角に切られただけの窓。現在のオフィスビルのデザインまで、あと一歩である。
ところが、よく外壁を見てみると、アーチ状の開口部が連続する1階部分、細長い柱型でひとつにまとめられた2階〜4階部分、そして屋上部分と、壁面が三分割されている。この壁面分割は、古典主義様式の伝統的な手法であって、つまり電話局の建物は、形式的には伝統に則っているのである。大桟橋通りに面した玄関のアーチも同様である。キーストーンと持送りの位置に石を用いてアーチの形状を強調し、タイル貼りの部分にも規則的に溝を設けて、あたかも組積造であるかのような表現となっている(図3)。
これが戦前の建築を見る面白さである。よく見ると伝統の面影を残しながらも、しかし、足は確実に前へと踏み出している。新しい時代への期待がデザインにも託されたこの建築、震災復興のなかで生まれたことは決して偶然ではない。
今では、明治の建築はおろか、こうした昭和期の建築でさえも街中で目にする機会は少なくなった。集客力の高い商業施設が次々と誕生し、話題を独占する一方で、戦前の建物はひっそりと姿を消していっている。昭和という身近な過去でさえ、私たちは感じ取ることが難しくなりつつあるのだ。
今回、都心部に残る歴史的建造物を活用するかたちで、「横浜都市発展記念館」という都市横浜の歩みを紹介する展示施設が誕生する。戦前の建物ゆえの制約も大きいのだが、歴史への理解を深めると同時に、都市の遺産にも触れられるという点では、こんなに相応しい場所はないともいえる。
横浜という都市の歴史は大きな振幅をもっている。展示が待ちきれない方は、ぜひ一度、ゆっくりと街を歩いていただきたい。歴史の豊かな厚みは、展示施設のなかだけではなく、この建物にも、そして身の回りにもきっとまだ残されているはずである。その発見をもって、来春、この場所に戻ってきていただければ、嬉しいかぎりである。
(青木祐介)