「開港のひろば」第145号 |2019(令和元)年7月20日発行
- 企画展 開港前後の横浜 村びとが見た1858〜1860
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 波止場の建設をめぐって
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 開港直後の町と外国船
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 一 廻船停泊地と廻船問屋の所在地
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 二 廻船問屋「桟橋」の撤去
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 三 ロシエ「神奈川湊」の意味するもの
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 はじめに
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 紀念絵葉書
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 横浜奬兵義会婦人部関係資料
- ミニ展示 ラグビーと幕末・明治の横浜
- 資料館だより ▼企画展
展示余話
ロシエ「神奈川湊」再論
二 廻船問屋「桟橋」の撤去
こうした荷揚の方法は開港に伴い、大きく変化したようである。ここでは安政6年(1859)から翌安政7年=万延元年(1860)における開港場とその周辺に関する様々な情報が記載されている「横浜開港場見聞記」(『神奈川県史資料編10 近世(7)』412号文書)によって、その変化をみていく。なお、同書620頁下段の「安政六未年七月十六日自 松平隠岐守殿 浜御台場始ル」より、621頁下段の「(万延元年六月)廿一日、曙七ツ時ノ御立ニテ御帰府有ケル」までの部分は、台場建設に関する記述が挿入されており、次の「七月十七日、蒸気船壱艘入津致」より再び安政6年の内容となっている。
さて、同資料の安政6年7月27日条には「青木町海岸、宮ノ川岸ヲ残シ、跡ワ不残サン橋可ハズス仰渡シ有」とあり、また8月20日条には「今日自神奈川商人其外共、外国人荷物ワ申ニ不及、何品ニテモ船積運送ノ義ワ、神奈川町一円ニ青木宮ノ川岸ノ外ワ御制禁ニ相成」という文言がみえる。
前者は青木町の海沿いにおいて、「宮ノ川岸」=図版1にみえる洲崎明神前の河岸のみを残し、それ以外の「サン橋」(桟橋)を「ハズス(外す)」こと、すなわち撤去することが指示されている。また、後者では、「神奈川商人」が扱う「船積運送」について「青木宮ノ川岸」以外の使用禁止が通達されている。こうした青木町の「宮ノ川岸」=洲崎明神前の河岸=船付場のみに荷揚場所を限定しているのは、不穏な人物が開港場へ渡海することの防止策であろうか。
その後、さすがに荷揚場が1か所だけでは運用に困難をきたしたようで、9月18日条に「神奈川町海船運送場、軽井沢広屋栄助海岸東西十軒、台町堀部屋勘兵衛海岸同断、青木町宮ノ川岸東西同断、荒宿松五郎海岸東西同断、成仏寺門前内田屋半右衛門川岸南北同断、右五ヶ所ニ運送場ニ御免ニ相成、右五ヶ所ノ外ワ御禁制ニ相成候」とあるように、「運送場」=荷揚場の数は5か所に増やされたが、廻船問屋地先の「桟橋」=荷揚場の使用は許可されていないことに変化はなかった。