「開港のひろば」第145号 |2019(令和元)年7月20日発行
- 企画展 開港前後の横浜 村びとが見た1858〜1860
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 波止場の建設をめぐって
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 開港直後の町と外国船
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 一 廻船停泊地と廻船問屋の所在地
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 二 廻船問屋「桟橋」の撤去
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 三 ロシエ「神奈川湊」の意味するもの
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 はじめに
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 紀念絵葉書
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 横浜奬兵義会婦人部関係資料
- ミニ展示 ラグビーと幕末・明治の横浜
- 資料館だより ▼企画展
展示余話
ロシエ「神奈川湊」再論
一 廻船停泊地と廻船問屋の所在地
神奈川湊の廻船の停泊地は、青木町の台町の崖下、おおむね現在の横浜駅周辺とされている。この停泊地に対応するように、各廻船との荷物売買の権利を独占的に持つ廻船問屋の屋敷は、青木町の下台町のあたりに存在していた。
こうした廻船停泊地と廻船問屋の所在地については、文政7年(1824)作成の『神奈川砂子』所収の挿絵「東台下・飯綱社」(図版2)・「袖ヶ浦之景」(図版3)から確認できる。図版2では左下の海に面した場所に海と東海道にはさまれながら細長い6棟の蔵がみえる。また、図版3では、台町右側の海上に五艘の廻船が停泊している。
石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載。
石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載
さらに天保15年(1844)刊行の「細見神奈川恵図」の部分図である図版4によれば、三宝寺付近に存在する「一里塚」周辺の海側に、10数棟の蔵がみえ、その沖合に数艘の廻船が停泊している。この蔵が廻船問屋のものであることはいうまでもない。
また、海と東海道に対して直角の向きに細長く建ち並ぶ廻船問屋の蔵のあり方は、明治初年に撮影された写真「神奈川駅遠景」(図版5)・「高島町」(図版6)からも確認できる。ともに背後の丘陵上から撮影された図版5・6においては、海に面して直角方向に細長く伸びる蔵が建ち並んでいる。
このように神奈川湊の廻船問屋たちは、それぞれの屋敷の海側に荷揚場と蔵を所有していたのである。沖合に停泊している廻船からハシケにより、それぞれの問屋の荷揚場へ運び、荷揚げを行った後、隣接した屋敷内に存在する蔵へ収納したと思われる。そして、商品の内容と相場を見計らいながら、東海道に面した店舗で売買・運送が行われたのであろう。