「開港のひろば」第145号 |2019(令和元)年7月20日発行
- 企画展 開港前後の横浜 村びとが見た1858〜1860
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 波止場の建設をめぐって
- 企画展 開港前後、横浜の港と町 神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から 開港直後の町と外国船
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 一 廻船停泊地と廻船問屋の所在地
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 二 廻船問屋「桟橋」の撤去
- 展示余話 ロシエ「神奈川湊」再論 三 ロシエ「神奈川湊」の意味するもの
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 はじめに
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 紀念絵葉書
- 資料よもやま話 前田家資料と日露戦争 横浜奬兵義会婦人部関係資料
- ミニ展示 ラグビーと幕末・明治の横浜
- 資料館だより ▼企画展
ミニ展示
ラグビーと幕末・明治の横浜
来る9月に開幕するラグビーワールドカップ日本大会の決勝戦は横浜でおこなわれるが、横浜とラグビーとのつながりは、幕末までさかのぼることができる。
1866年1月26日(慶応元年12月10日)、横浜外国人居留地の一角(現・中区山下町127番地)で、横浜在住のイギリス人や、当時、横浜に駐屯していたイギリス陸軍の士官たちが中心となり、横浜フットボールクラブ(Yokohama Foot Ball Club)が設立された。
この頃のフットボールというスポーツは、ラグビーとサッカーとが未分化のスポーツであり、プレーのようすはわかっていない。
クラブの設立から8年後の1874(明治7)年4月、ロンドンで発行されていた雑誌に「日本のフットボール」という記事が、さし絵【図】付きで掲載された。さし絵に描かれた選手たちのプレーのようすから、この時の試合は今日のラグビーに近い試合だったことがわかる。横浜フットボールクラブのフラッグ(「YF[B]C」はクラブの頭文字)も見える。雪を頂く富士山を遠景に、大勢の日本人見物人の姿も描かれている(着物の袷が逆になっている)。
『ザ・グラフィック』The Graphic 1874(明治7)年4月18日号掲載 当館蔵
絵の作者はチャータード・マーカンタイル銀行横浜支店勤務のアベル(H. A. Abell)、と記事の本文に明記されている。当時の人名録であるディレクトリを見ると、名前があった(スペルが少し異なる)。勤務先は、1863年に横浜に進出してきたイギリス系大手銀行である。
記事には試合開催日の記述はないが、前年の73(明治6)年12月12日に横浜公園でおこなわれた試合だと考えられている。この試合の記事が翌13日、横浜居留地の英字紙『ジャパン・ウィークリー・メイル』に載った(YC&ACヒストリアン、マイク・ガルブレス氏の研究)。前述したアベルが、フォワードとして活躍したことも報じていた。
さし絵などの関係史料5点を、8月31日(土)までミニ展示コーナーで紹介している。
(中武香奈美)