「開港のひろば」第142号 |2018(平成30)年11月3日発行
- 明治の戦争と横浜 −伝わる情報、支える地域−
- 企画展 西南戦争の従軍記録 −一兵士の軍隊手帳から− 近代陸軍の整備
- 企画展 西南戦争の従軍記録 −一兵士の軍隊手帳から− 金子増五郎の入隊
- 企画展 西南戦争の従軍記録 −一兵士の軍隊手帳から− 西南戦争と歩兵第1連隊
- 展示余話 慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯 『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から 横浜駐屯の史料
- 展示余話 慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯 『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から 藩兵の調練
- 展示余話 慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯 『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から 支配地域と巡回
- 資料よもやま話 「関口日記」にみる生麦村の近代化 はじめに
- 資料よもやま話 「関口日記」にみる生麦村の近代化 実業家への転身を目指して
- 資料よもやま話 「関口日記」にみる生麦村の近代化 大日本帝国憲法発布と関口家
- ミニ展示 築地居留地、開かれる
- 資料館だより ▼企画展
展示余話
慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯
『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から
藩兵の調練
横浜に到着した佐賀藩兵には、18日から「銃陣・的前品々稽古」(隊列・射撃等の訓練)をおこなうことが命じられる。この訓練の実施には実は次のような事情があった。
4月10日、京都の聖護院村(左京区)で軍防総督(軍防事務局督)小松宮彰仁親王による閲兵(「操練御見分」)があった(東京大学史料編纂所編『復古記』第三冊、東京大学出版会、1974年)。参加したのは阿波徳島藩蜂須賀家など13藩である。この調練を見たさる方のもらした感想が次のように『諸仕組達帳』に書きとどめられている(図3)。
『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』
神奈川県立公文書館蔵
阿州そのほかの調練、御覧遊ばれ候処、至極練熟にて、中々この御方兵隊などとは霄壌(しょうじょう)の違いに相見え候よう思し召され候
つまり、徳島藩(「阿州」)その他の藩の兵士の動きは「至極練熟」しており、佐賀藩(「この御方」)の兵隊などとは天地ほどの違い(「霄壌の違」)があるというのだ。そこで、「横浜表御着きの上、猶又練兵一条御勤めこれあり、練熟の人もこれあり候えば、右の内名前等急速申し越し候よう」と、横浜に到着したあともなお兵士の訓練に勤しみ、「練熟」の者がいたらその人名を連絡するように、との通達が発せられた(4月11日付原田小四郎宛中野数馬書状)。この感想をもったのは軍防事務局輔の経験もある前藩主鍋島直正(閑叟)だろうか。
佐賀藩と言えば、兵装は近代化され、西洋式訓練が施されていたというイメージがある。しかし、他藩とくらべて「練熟」していないとの印象を抱かれ、横浜の駐屯部隊にもさらなる軍事訓練が課せられたのである。
関門警備の様相
佐賀藩兵は開港場近辺の警備にあたる。『諸仕組達帳』によれば、警備地点は当初、神奈川渡船場、谷戸橋、西(ノ)橋、吉田(橋)関門内外が指定され、警備陣は一昼夜交代で勤務することになった。
関門は「明ケ六時相開キ、暮六時〆切」というように開門・閉門時間が午前・午後の6時と決まっていた。とくに、吉田橋・谷戸橋の両番所は「帯刀の人出入り等は猶又厳密相改め」と、刀を帯びた武士の出入りについてとくに厳重に検査をおこなうことが指示された。
もっとも『横浜御出張日記』の4月23日条に「吉田御番所そのほか五ヶ所とも、この御方よりの出番に及ばざる旨相達され候」と記されているように、早々に佐賀藩の関門警備は免ぜられたかのようである。ところが、同史料の閏4月20日条に、吉田(橋)番所・石崎番所・くらがり坂番所における警備の増員命令が記されており、この間のある時点で関門警備が復活したと考えられる。