「開港のひろば」第139号 |2018(平成30)年1月31日発行
- 企画展 銭湯と横浜―“ゆ”をめぐる人びと―
- 企画展 北陸地方から横浜へ―銭湯経営者と同郷者集団―
- 企画展 北陸地方から横浜へ ―銭湯経営者と同郷者集団― 石川県七尾市
- 企画展 北陸地方から横浜へ ―銭湯経営者と同郷者集団― 石川県鹿島郡中能登町
- 企画展 北陸地方から横浜へ ―銭湯経営者と同郷者集団― 新潟県新潟市西蒲区
- 展示余話 横浜開港後における尾張屋新田・平沼新田について
- 展示余話 横浜開港後における 尾張屋新田・平沼新田について
- 資料よもやま話 幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙(続) 横浜からの最初の手紙
- 資料よもやま話 幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙 (続) 八王子への狩猟旅行
- 資料よもやま話 幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙 (続) 長州藩使節一行との船旅
- ミニ展示 幕末明治、横浜犬事情
- 資料館だより ▼企画展
資料よもやま話
幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙(続)
八王子への狩猟旅行
間もなくスミスは同じ部隊の友人と八王子周辺まで4日間の狩猟旅行に出かけたが、その時のようすを次のように記した。
拳銃とライフルを常に携行したが、横浜を出発して以降、二本差しの人物にはひとりも会わなかった。生糸産地の中心地、八王子あたりへも行った。桑畑しか見なかった。とある村の茶屋に泊まろうとしたが入れてもらえず、警備役人の許可がなければだめだ、と言われた。警備役人から名前やどこから来て、どこへ行くのかなど質問攻めに遭った。ひとあたり質問して好奇心を満足させると、我々を平和裡に解放してくれた。我々は畳を汚さないようとブーツを脱がされ、また連れてきた犬は足を洗ってもらった。我が通訳[日本人]は外国人に従って黙って横浜を出てきたので、運上所の役人にばれないかと怯えていたが、警備役人がやって来ない所まで来ると変身し、歌を歌ったり、おしゃべりに興じたりした(母親宛て、64年3月31日付)。
日本語学習
スミスは日本語の日常会話を習い始めた。「現在、私は運上所の通訳から、一月に12分(1分銀12個)を払って日本語の日常会話を習っている。日本語の読み書きは、できるようになるまでに2〜3年はかかるので、諦めた(姉妹マリア宛て、64年5月13日付)。
駐屯軍の一員であるスミスは、部隊がいつ移動を命じられるかわからないため、習得に時間がかかる日本語の読み書きの学習は断念したのだろう。なお、日本語学習は情報収集の一環だ、とも書いている。
別の手紙では日本語の難しさや、日本語教師である運上所の通訳について次のように書いている。
私はまだ通訳から日本語を習っている。この通訳はジンジャービールと両切り葉巻が大好きだと、ほのめかした。日本語それ自体は簡単な言語であるが、属する階級ごとにすべて言葉が異なる。たとえば大名が使う言葉をしゃべることができるとなると、ヤクニンやクーリーの言語はわからない、ということだ(兄弟ラルフ宛て、64年5月26日付)。
狩猟や日本語学習、役人たちとの交流を楽しんでいたスミスであったが、居留地防衛という駐屯任務を怠ることはなかった。「オールコック[英公使]は明らかに、ここの情況は怪しいと考えている。我々に一日おきにフランス分遣隊と交替で居留地の夜回りの実施と、また兵士全員に常に銃を装填しておくよう命じた」(前掲、ラルフ宛て)。
同年8月末、英・米・仏・蘭の連合艦隊が下関攻撃に出航し、スミスらは横浜居留地防衛の任務に就いた。
外国人警護にあたる日本の役人や兵士に危機感が見られないとして、そのようすを風刺している。