「開港のひろば」第132号 |2016(平成28)年4月15日発行
- 企画展 ハマの大地を創る ―吉田新田から近代都市へ―
- 企画展 ハマの大地を創る ―吉田新田の開発― 媑揷壠偵巆偝傟偨俀枃偺恾柺 乗乽奐敪慜恾乿偲乽奐敪恾乿
- 展示余話 あるドイツ人が残した写真帳から 「フリッツ・ザンドステーデ写真帳」(1906〜09年)
- 展示余話 あるドイツ人が残した写真帳から 麒麟麦酒(キリンビール)株式会社の新棟
- 展示余話 あるドイツ人が残した写真帳から 横浜開港50年祭の賑わい
- 展示余話 あるドイツ人が残した写真帳から 仲間との小旅行
- 資料よもやま話 明治初年における武州金沢藩の動向 ―領内村々における「会議方」の設置について―
- 資料よもやま話 明治初年における武州金沢藩の動向 ―領内村々における「会議方」の設置について―
- 資料よもやま話 明治初年における武州金沢藩の動向 ―領内村々における「会議方」の設置について―
- 特別資料コーナー シドモアを魅了した、明治横浜の桜
- 資料館だより ▼企画展
資料よもやま話
明治初年における武州金沢藩の動向
―領内村々における「会議方」の設置について―
横浜市域に本拠(金沢陣屋)を有する唯一の藩である武州金沢藩(六浦藩)の動向については、本格的な研究がなく、事実関係の整理をはじめ、解明すべき事柄は多いように思われる。そこで、ここでは当館所蔵の武蔵国久良岐郡宿村森家文書から、明治2(1869)年3月に同藩が設置した領内村々における「会議方」という役職の任命を題材として、明治初年における同藩の動向の一端に触れておきたい。
幕府崩壊後における諸藩は、明治2年6月の版籍奉還から同4(1871)年7月の廃藩置県へいたる過程の中で翻弄されているイメージがあり、特に一万二千石という小藩で、藩領も各地に分散する武州金沢藩においてはそうした傾向がより強いようにも思われる。しかし、実際には社会体制の急激な変化の中、可能な範囲ではあるものの新たな対応を示しており、「会議方」の設置もそうした政策の一環として理解できよう。
〈史料1〉
会議方
今般
御一新之
御趣意ニ被為基
会議方被
仰付候儀者
官役無滞相勤、村内
取治り方者勿論
生業安堵之為ニ候間、
万事私を省き村役人を
補助いたし、村方為筋ニ
相成候儀相考、農間に
会議日相立、村役人
一同打寄、相互ニ存込
無遠慮申立及議論候
之上、地方役并執政職江
直ニ可申立候、兎角
遺才有之候而者村方
取治も不相立候間、淳良
之才有能之もの見出し
申立候儀、専一ニ候事
宿村
森沖右衛門
藤左衛門
作能右衛門
赤井村
清七
古久右衛門
勝五郎
寺前村
喜三郎
嘉七
虎蔵
甚右衛門
会議方被
仰付之
史料1(図版1)によれば、「御一新之御趣意」にもとづき領内村々に「会議方」の役職を設置するとしている。その目的は、「村内取治り方」と「生業安堵」のためとされ、「村方為筋」の事柄を検討・討議し、その結果を藩の「地方役并執政職」へ提案すべきことが記されている。中でも「淳良之才」「有能之もの」といった人材を選出することが「専一」=最重要であり、人材の発掘と登用が急務であったことがうかがわれる。
森家文書「森家関係」24号文書