「開港のひろば」第131号 |2016(平成28)年2月3日発行
- 企画展 日独修好150年の歴史 ―幕末・明治のプロイセンと日本・横浜
- 企画展 ドイツと日本の交流の足跡 ―遺された資料から― 海外で刊行された新聞の挿絵
- 企画展 ドイツと日本の交流の足跡 ―遺された資料から― 使節団が持ち帰ったもの
- 企画展 ドイツと日本の交流の足跡 ―遺された資料から― シーボルト関係資料
- 展示余話 三分小学校における音楽教育の展開 ―「六浦荘村立三分小学校沿革誌」にみる―
- 展示余話 三分小学校における音楽教育の展開 ―「六浦荘(むつうらのしょう)村立三分(さんぶん)小学校沿革誌」にみる― 六浦不二による音楽教育
- 展示余話 三分小学校における音楽教育の展開 ―「六浦荘(むつうらのしょう)村立三分(さんぶん)小学校沿革誌」にみる― その後の音楽教育
- 資料よもやま話 横浜海岸教会所蔵資料の公開にあたって 横浜海岸教会の歴史
- 資料よもやま話 横浜海岸教会所蔵資料の公開にあたって 横浜海岸教会所蔵資料の概要
- 資料よもやま話 横浜海岸教会所蔵資料の公開にあたって
- 資料よもやま話 横浜海岸教会所蔵資料の公開にあたって 教会資料の保存と活用
- 特別資料コーナー 横浜海岸教会所蔵資料から 初代牧師、稲垣信(いながき まこと)関係資料
- 資料館だより ▼企画展
展示余話
三分小学校における音楽教育の展開
―「六浦荘(むつうらのしょう)村立三分(さんぶん)小学校沿革誌」にみる―
六浦不二による音楽教育
三分小学校における音楽教育、当時の科目では「唱歌」になるが、その教科名が最初に「沿革誌」に現れるのは、明治19年12月3日の記事である。ここでは「高等小学科課程」に「唱歌」の科目があり、第一年と第二年については「単音唱歌」、第三年と第四年は「複音唱歌」と、その内容が記されている。しかし、末尾に「右ノ内、唱歌ハ当分実行ニ至ラズ」とあるように、当分の間、実施にはいたらないこととされている。西洋音楽を教授できる教員がいないという事情によるものであろう。
三分小学校における音楽教育を最初に担ったのは、明治16年11月1日に「補助員」として採用された六浦不二という人物であった。六浦不二は、明治20年4月20日に「授業生」の免許状を取得、明治25年6月に「尋常本科準教員一時教授担任」の辞令、12月25日には「尋常科正教員、本校訓導」に任命され、正教員となっている。
明治27年3月1日には「第三四学年ニ教授時間外、唱歌ヲ授ク、六浦訓導担任、手風琴ヲ使用ス」とあり、正式な授業時間外ではあるものの、「手風琴」(アコーディオン)を使用して、六浦不二による「唱歌」の授業が行われることになった。また、明治29年7月には「有志寄附ノ風琴ヲ備付ク」として、有志の寄付により「風琴」(オルガン)が三分小学校に設置された。こうして、次第に音楽教育を進める環境が整えられていったのである。
また、同年11月1日には、三分・金沢・釜利谷の各小学校が合同で毎月一回、各小学校持ち回りで、「教員ノ茶話会」を実施することとなった。その内容は「教育上ノ談話及唱歌楽器ノ練習等」であり、教育全般にわたる情報交換と思われる「教育上ノ談話」と並んで技能的な事柄である「唱歌楽器ノ練習」があげられている。実技的な内容が重視される科目の特性によるものであろう。三分小で開催された際には、設置されたばかりの「風琴」を利用して、六浦不二を中心に三校の担当教員が練習していたことになろうか。
明治30年4月14日には「各学年毎週二時間ツヽ唱歌ヲ加ヘ授クルコトヲ認可セラル」とあり、「唱歌」がようやく正式な授業に組み込まれていった。
こうした動向は、明治24年1月17日の「勅語奉読式」や、同29年3月15日の日清戦争の「凱旋祝賀式」において、「唱歌君が代」の合唱がプログラムに組み込まれているように、こうした歌の合唱が公式行事に不可欠なものとなっていることに対応していると思われる。
ところが、明治31年4月25日に六浦不二は病気により休職し、5月11日に31歳で病没している。翌12日の葬儀には「全校職員生徒会葬、唱歌師の恩」を合唱して哀悼の意を表した。「沿革誌」における同人の評価は「夙ニ手風琴ヲ練習シテ、授業ノ余暇唱歌ヲ生徒ニ授ケ、本校唱歌科ヲ加へ授ケルノ素地ヲ作リ、其他本校ヲ裨益セシコト尠カラズ」と記されており、「手風琴」を愛好し生徒たちに唱歌を教え「唱歌科」の素地を作ったという高い評価が与えられている。