「開港のひろば」第115号 |2012(平成24)年2月1日発行
- 企画展 下岡蓮杖開業150周年記念 フォトスタジオの聖地・横浜 −1860’s〜1960’s−
- 企画展 横浜の写真館の歩み −1860’s〜1960’s− 下岡蓮杖と湿板写真の時代
- 企画展 横浜の写真館の歩み −1860’s〜1960’s− 横浜写真から絵葉書へ
- 企画展 横浜の写真館の歩み −1860’s〜1960’s− 大衆社会と拡がる写真ニーズ
- 企画展 横浜の写真館の歩み −1860’s〜1960’s− 戦争と写真館
- 展示余話 所蔵資料の来し方、行く末 コレクションとしてのまとまり
- 展示余話 所蔵資料の来し方、行く末 その他寄贈資料
- 展示余話 所蔵資料の来し方、行く末 「未来に伝える横浜の記憶」
- 資料よもやま話 元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓 横浜英仏駐屯軍
- 資料よもやま話 元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓 追悼記事
- 資料よもやま話 元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓
- 資料よもやま話 元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓 妻エリザは部隊とともに来浜か
- 特別資料コーナー 太平洋を渡った幕末の船大工 鈴木長吉関係資料
- 資料館だより ▼企画展
資料よもやま話
元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓
ヴィンセント家の墓(図1)は、山手の横浜外国人墓地正門を入ってすぐ左手、垣根をはさんで山手本通りに面した4区にある。右隣には横浜十全病院や山手ジェネラル・ホスピタルで活躍したアメリカ人医師エルドリッジが眠る。
横浜英仏駐屯軍
ヘンリー・ジェームズ・ヴィンセントHenry James Vincent(以下、ヘンリーと記す)とその一家のことを知る人はいないだろう。今は約5千体以上の埋葬者の中に埋もれているが、実はこの一家は幕末に横浜に駐屯したイギリス第20連隊第2大隊の兵士と、その家族なのである。
駐屯軍派遣のきっかけとなったのは、1862年9月14日、生麦村(現鶴見区)でおきた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)であった。横浜に住む外国人防衛を名目にイギリスとフランスは自国軍隊の駐屯を幕府に認めさせた。部隊がイギリスや中国、南アフリカから呼び寄せられ、イギリス軍の第一陣としてヘンリーが所属する第20連隊第2大隊が1864年、香港から派遣されてきた。その後、諸部隊が交替で来浜し、1875年3月の英仏同時撤退まで駐屯はつづいた。かなりの部隊が病兵を多数抱えて疲弊していたにもかかわらず、外国軍隊の存在は脅威であり、独立国日本にとって大きな外交問題となった。
イギリス駐屯軍兵士の墓は6区のイギリス招魂祈念碑の辺りに多数見られる。彼らは駐屯中に亡くなったが、死因の多くは病死である。ヘンリーと同じ部隊のボールドウィン少佐とバード中尉の場合は、鎌倉を散策中に浪士に襲撃され命を落とした(鎌倉事件)。
ヘンリーは横浜撤退を契機に除隊し横浜に根を下ろしたが、同じ行動に出た兵士がかなりいたようだ。園芸家で、山手の墓地の管理人もつとめた元イギリス海兵隊員ジャーメインJohn Joshua Jarmainもそのひとりだ。除隊後、日本人女性と結婚し家庭をきづいた。
ヴィンセント家の墓碑
墓碑にはヴィンセント姓の3名の名前が記されている。墓碑は最も早く亡くなったアデリーナ(享年45)のために建てられ、つづいて元駐屯軍兵士の父ヘンリー(享年77)が、母エリザ(享年〔87〕)はカナダで没したが、名前が記されている。
- アデリーナ・マリー・エリザベスAdelina Mary Elizabeth Vincent愛称はアディーAddie 1856年3月11日生〜1901年10月16日没。
- ヘンリー・ジェームズHenry James Vincent 1830年11月15日生〜1907年10月30日没。
- エリザ・アンEliza Ann Vincent 1835年9月21日生〜[1922]年3月15日没。アイルランドのベルファストで生まれ、カナダのヴィクトリアで没した。