横浜市開港記念館

G.横浜応接所
よこはまおうせつじょ

条約交渉じょうやくこうしょうが横浜よこはまでおこなわれることが決きまり、幕府ばくふは浦賀うらがに用意よういしていた応接所おうせつじょの建物たてものを、10日間かかんほどで現在げんざいの神奈川県庁付近かながわけんちょうふきんに移うつしました①。

2月がつ10日か、約やく500人にんの水兵すいへいたちをしたがえてペリーが上陸じょうりくし、最初さいしょの日米会談にちべいかいだんがおこなわれました。左側ひだりがわにペリーらアメリカ側がわ、右側みぎがわに林大学頭はやしだいがくのかみら日本側にほんがわがすわっています②。

会談かいだんの後あと、日本側にほんがわは約やく300人前にんまえの昼食ちゅうしょくを用意よういして、もてなしています③。お酒さけとお吸すい物もの、50種類しゅるいの肴さかな、100種類しゅるいをこえる料理りょうりが出だされました。

ペリー艦隊かんたいは、多おおくの贈おくり物ものをもってきていました。2月がつ23日にちには小ちいさな蒸気機関車じょうききかんしゃを運転うんてんしてみせました④。日本にほんの役人やくにんは興味きょうみしんしんで、汽車きしゃの屋根やねにまたがり、しがみついて乗のりまわったようです。

また2月がつ24日かには電信機でんしんきの実験じっけんがおこなわれました⑤。役人やくにんは、何度なんども何度なんども通信つうしんの実験じっけんをさいそくするほどでした。

2月がつ26日にちの第だい3回目かいめの会談かいだんにさきだち、今度こんどは幕府ばくふから、ペリー艦隊かんたいへ、美術工芸品びじゅつこうげいひんや米こめ・にわとりなどが贈おくられ、すもうが披露ひろうされました⑥。米こめだわらを軽々かるがると持もち運はこぶ力士りきしに、こんどはアメリカの水兵すいへいたちが驚おどろきました。

会談かいだんは順調じゅんちょうにすすみ、3月がつ3日かに日米和親条約にちべいわしんじょうやくが調印ちょういんされました。条約じょうやくは12か条じょうからなり、日米両国にちべいりょうこくは親密しんみつな交流こうりゅうをすること、下田しもだと函館はこだてのミナトを開ひらいてアメリカ船せんに燃料ねんりょうや食料しょくりょうを与あたえること、遭難そうなんした船員せんいんを救たすけること、下田しもだに領事りょうじを駐在ちゅうざいさせること、などが決きめられました。